2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、あらゆる食品の原料が高騰し、食べ物の値上げが止まりません。
そうした中、「絶対に値上げをしない」と公言するのがサイゼリヤです。
値上げラッシュの食品業界にあって、ミラノ風ドリア(300円)もマルゲリータピザ(400円)も据え置きのままで勝負しています。
飲食業界で働く人々の賃上げを実現していくためにも、昨今の値上げラッシュをきっかけにサイゼリヤも適正価格に戻し、業界の健全化に寄与してほしいという意見を持つ人も一定数存在しています。
しかし、サイゼリヤは決して不適正価格で勝負しているわけではなく、安価で美味しいメニューを届けるための企業努力を続けていることをご存じなのでしょうか?
この背景には、安く美味しいごはんを食べて喜んでほしいという創業者の想いがあるからです。
それは、サイゼリヤの基本理念「人のため 正しく 仲良く」に象徴されているように思えます。
今回は、番外編として、千葉県から始まったサイゼリヤの経営の原点をご紹介します。
【この記事の内容】
●サイゼリヤの創業
●大胆な価格戦略に打ってでる
●サイゼリヤ流立地の考え
●多店舗化に向けて
●店舗作業の合理化を進める
●イタリアからワインの直輸入を開始
●オリーブオイル・パスタ・チーズなどの直接輸入を開始
●自社生産工場の設立・稼働開始
●サイゼリヤの強さの秘密
サイゼリヤの創業

【創業者情報】
●氏 名:正垣 泰彦(しょうがき やすひこ)
●生 誕:1946年1月6日兵庫県生まれ
●出身校:東京理科大学理学部物理学科卒業
●職 業:サイゼリヤ代表取締役会長
正垣泰彦氏は、ファミリーレストラン大手のサイゼリヤの創業者で、現在は同社代表取締役会長です。
兵庫県の田舎で生まれ育ち、親分肌でみんなが喜んでくれることをするのが好きな少年でした。
高校時代は「超」がつくくらいの問題児で高校を退学処分になりましたが、恩師が守ってくれたことに感激し、その日から勉学に励むようになり東京理科大学に進学するまでになります。
正垣はアルバイトが好きで、学生時代にはいろいろなアルバイトに精を出していました。
新宿の大衆食堂でアルバイトをしていた時には、皿洗いを一所懸命頑張って職場の仲間からとても評価されていました。
大学4年になり卒論を書くためにアルバイトを辞めたいと願い出たところ、コックから「おまえ、食べ物屋の素質があるから独立してやってみたらいい」という思わぬ一言を投げかけられました。
その言葉がきっかけとなって、借金をして開業資金を貯め、千葉県市川市にあった10坪程度の「フルーツパーラーサイゼリヤ」を買い取って在学中に開店したのです。
店舗の立地条件は悪く、食品サンプルも放置されたままで、スパゲティいたってはロウが溶けてスープスパゲティにしか見えないという有様でした。

総武線のダニの巣窟?

正垣は、独学で料理や経営を学び、コックに教えてもらいながら自ら厨房に立ちました。
ところが、立地が悪かったこともあって、お客さんはゼロ。
正垣は、駅前で宣伝用の看板を身にまとってサンドイッチマンをやり「うまい料理がありますよ」そう言っては、帰宅前のサラリーマンを捕まえていったのです。
店に着くと看板を脱ぎ、厨房でそのまま料理を作るからお客さんはびっくりです。
開店当初はフルーツパーラーを名乗ってはいましたが、深夜営業やウィスキーのボトルキープまでやっており、どちらかというとレストランというよりスナックでした。
店を引き継いで9か月目のある日、店内でのヤクザ同志の喧嘩がもとで店が全焼してしまいます。
翌日の新聞には「総武線のダニの巣窟」と書かれていました。
正垣氏は燃えさかる店を見上げながら内心ホッとしていたと言います。
経営が苦しくて、正垣を慕ってついてきた従業員に給料が出せていなかったからです。
そして、実家に帰って店を辞めたいと愚痴をこぼした正垣氏に対して、母親はこう言いました。
『せっかく火事が起こったのに、やめるなんてもったいない。
いいかい、苦労や問題というのは、自分を成長させるために起きているんだから、正面から受け止めなさい。
火事で店がなくなるなんて、最高じゃない』

|正垣泰彦の言葉|
嫌な状態、逃げたい状態が起きるんだけど、
それは全部自分のためにあるんです。
努力して乗り越えようとしないで、とりあえずまず最初に我慢すること。
我慢して我慢して、そして、
そのうちに色んなことが見えてくるんです。
イタリヤ料理店として再出発
給料が出せない分、正垣氏は従業員たちに数学を教えていました。
従業員たちは中学を卒業して集団就職で東京に出てきた者ばかりで、正垣氏から高校や大学で学ぶ数学を教えてもらうことに喜びを感じていたのです。
店の大家さんは、そんな若者たちを見て、彼らの夢を閉ざしてはいけないと店舗をまた建て直してくれました。
保証金もなし、家賃も以前のままでまた「サイゼリヤ」は再開することができたのです。
『今度こそちゃんとお客がくる店にしたい。クセになるような料理、一度食べたらやみつきになるような料理はないものか…』
そこで、正垣氏は、食品の中で何が伸びているか調べたところ、味噌とニンニクと唐辛子が伸びていることがわかりました。
そして、世界規模で消費量を伸ばしているのは、トマト、チーズ、スパゲティでした。
また、かつてフランス、ドイツ、スイス、イタリアと各地の料理を食べ歩いた時に、イタリア料理だけは毎日食べても嫌にならないくらい自然な食べ物だったと感じていました。
『イタリアの豊かな食文化を日本にも定着させたい』
こうしてサイゼリヤは、イタリア料理店として再出発することになったのです。
大胆な価格戦略に打って出る
正垣氏はメニューを3割引にしましたが、なかなか客足は増えませんでした。
そこで、正垣氏はさらなる秘策に打って出ます。
正垣氏はメニューを7割引にしたのです。
午後4時の開店とともに、狭い店内は客であふれるようになりました。
普段は10人の客足が600人となったのです。
料理がなくなり7時に店を閉めると、お客さんが下から「開けろ」「開けろ」の大合唱でした。
1時間だけ外で待ってもらい、仕込み直してまた開店するのですが、それもすぐに料理は尽きてしまう有様でした。
サイゼリヤ流立地の考え
そのような中で、正垣氏は2号店を出す決心をします。
そして、1975年9月に開店したのが市川南口店。
そこは市川でもっとも評判の悪い立地で直前の店子は夜逃げしたところでした。
周辺の商店主からは「誰がやっても失敗する」と言われていましたが、もちろんサイゼリヤはそこでも大繁盛店となります。
『お客さんが来ないことを立地のせいにしてはいけない』という1号店で得た教訓が役にたったのです。
多店舗化に向けて
イタリアの食文化を定着させるためには、それだけの規模、店舗数が必要であると正垣氏は思うようになっていました。
ある日、正垣氏が市川駅北口を歩いていると、空き店舗と書かれたビラが貼られた物件が目に入りました。
店舗面積はなんと約500平方メートルあり、ここであれば十分にお客さんが入ると思い、正垣氏はすぐに管理会社に連絡を取りました。
管理人と待ち合わせして中に入ると、驚くことに店舗面積の半分が厨房スペースで、調理機器もそのまま残っていました。
こんなに広いと厨房スペースを持て余してしまうため、管理人も借り手を探すのに苦労していたのです。
『お兄ちゃん、うんと安くするから借りてってくれよ』借り手を探すのに苦労していた管理人からは何度もお願いされましたが、正垣にしてみれば、良い物件が天から降ってきたと舞い上がる気持ちだったと言います。
正垣は、厨房が大きければここで加工した食材を他の店舗に持って行き、仕込みが効率化できるのではないとか考えつきます。
今でいうセントラルキッチン(集中調理施設)のようなものです。
「急いで契約を進めましょう」契約を完了し開業すると、3号店もお客さんでいっぱいになりました。
市川には店を出し続け、マクドナルドが1店のところ、サイゼリヤは5店になりました。
5万~6万人の小商圏で1店はできる計算なので、正垣氏はこの時『1千店は必ずいける!』と確信に至ったのです。
店舗作業の合理化を進める
1987年に18店舗目をオープンし、初めて150席を超える店舗の営業を開始しました。
この頃に、オーダーエントリーシステム(無線で注文を飛ばす)の導入を開始したり、トレーを持たず、オーダー係と運ぶ係を分けるなど、大型繁盛店舗を切り盛りするためのルールが作られていきます。
また、独自のソースやドレッシングの製造を協力企業に依頼してプライベートブランドを展開し始めます。
レストランより工場で製造するほうが、品質の均一化と運搬時の劣化の軽減を実現できたということです。
イタリアからワインの直輸入を開始
100店舗を目前にし、ようやくマスメリットを活かし始められるようになります。
100店舗の使用量を基に、イタリアのワイナリーに直接赴き、現地で品質を確認して購入契約を結びました。
商社を使わずに思い通りの品質を入手できることのメリットの大きさを学びました。
パスタは㌔270円だったのが、半額以下の130円まで下がったのです。
オリーブオイル・パスタ・チーズなどの直接輸入を開始
100店舗突破し、ワインに続き、オリーブオイル・パスタ・チーズなどの主力食材の直接輸入を開始します。これにより、品質の向上と価格の低減の両方を実現することができるようになります。
正垣氏は、利益還元としてピザ・リゾットなど50~100円の初の大幅値下げを断行しました。
このようなメリットと同時に、在庫確保のリスクや品質異常のリスクなど直輸入の難しさも学んでいきます。
さらに、大きな駐車場が必要なロードサイド型の店舗も千葉県柏市を皮切りにオープンしていきます。また、この年より、新卒定期採用を開始することになります。
自社生産工場の設立・稼働開始
カミッサリー(食材の一次加工を行うセントラルキッチン)が稼働開始し、食品加工メーカーに生産委託していた製品を自社生産できるようになります。
セントラルキッチンは料理人がオペレーションを回す一方で、カミッサリーは生産管理技術者がオペレーションを回すという意味で工場に近いものでした。
オリジナル製品を生産できるメリットはありましたが、生産に関する技術に疎く、当初は様々なトラブルが多発しました。
そこで、プライベートブランドの製造を委託していたメーカーに直接頼み込んで、優秀な社員を引き抜いていきます。
正垣氏は「生産管理にたけた優秀な人がたくさんいるでしょう。お願いですからくださいませんか」最初は味の素に頼み込みました。
「一番搾りに関わった人をくれませんか」とキリンビールの社長に直談判に行ったこともありました。ビールは何杯飲んでもなぜ飽きないのかを研究している人が欲しかったからです。
小さな企業を後押しするのが社会貢献と思ってくれたのか、1カ月後にはお目当ての人材を紹介してくれたのです。
東京証券取引所第一部に指定される
1998年4月に株式を店頭公開、1999年7月に東証第二部に上場を果たします。
2000年8月東京証券取引所第一部に指定替えを果たします。
正垣氏はビジネスで、一番大事なことは、基本理念であると言っています。
サイゼリヤの基本理念は、「人のため 正しく 仲良く」であり、正垣氏としては、上場して従業員に資産を持たせたいと考えていたのです。
|サイゼリヤ創業者 正垣泰彦の成功法|
❶諦めない
❷いまの1,000倍程度の具体的なビジョンを描く
❸ビジョン実現には、努力のみでは叶わず、構想、方法、手順、生き方や考え方を変えるしかない
❹理論を学ぶ
❺大事なこと(逃げたいこと)から素直にやる
❻人材を集める
❼仕事を楽しむ
」
サイゼリヤの強さの秘密
サイゼリヤの強さは何と言っても「安くて、美味しい」という点。
サイゼリヤの安さは人件費を削ったり、安く仕入れることによって実現しているのではなく、原材料の調達や製造、流通改革を行って実現しているのです。
❶客数を最も重要視するが、店長に売上目標は課していない
❷店長には「食材ロス」「水道光熱費」「人件費」の管理を徹底させる
❸現場を疲弊させる広告宣伝は行わない
❹工場の周辺の都道府県に戦略的にドミナント出店している
❺全国展開されていると思われているが、1都4県で国内半分以上を占めている
❻店舗はすべて直営で管理している
❼生産場所の近くにカミッサリーを建設するため良い素材を使える
❽野菜を作るために8億円で福島県白河市の広大な土地を購入
❾レタスは朝収穫して4℃まで下げて加工し、店まで搬送している
❿レタスは種から品種改良するほどのこだわりを持っている
⓫野菜を作るために8億円で福島県白河市の広大な土地を購入
⓬安くて質のよいホワイトソースを作るためにオーストラリアに自社工場を建設
⓭原価率はその他のファミレスと比べて高い
⓮人時生産性は通常の飲食店で2、3千円のところサイゼリヤでは6千円に達する